縁起について

美濃阿闍梨 天目(上法房 日盛)上人


本興寺は、日蓮大聖人の直弟子である天目上人が鎌倉に開創したお寺です。

大聖人が辻説法の途中、休息された地として、『休息山本興寺』と称していました。
天目上人は、法華経二十八品のうち、前半十四品の迹門と後半十四品の本門では説相が異なると「迹門不読説」を主張しており、天目上人の弟子達も同じ主張をしておりましたが、日什門流の開祖である日什大正師の教化にふれ改派に至りました。

その後、弘和2年(1382年)に『法華山 本興寺』と改称しました。

以後、日什大正師を当山の事実上の開祖としております。

 

また、現在本興寺のある飯田は、弘安5年(1282年)に日蓮大聖人が池上でご入滅後、ご遺骨を身延に奉じる途次、1020日頃にご一泊された地と伝えられています。

 

常楽院 日経上人


当山第二十七世である常楽院 日経上人は、慶長13年(1608年)に浄土宗の僧である廓山と江戸城中に於いて法論する事になりますが、法論の前夜に品川の本光寺に泊まっていたところを暴徒に襲われ、口を開ける事も、立つ事もできない体にされてしまい、法論の場で一言も発することのないまま敗北と判定されてしまいます。

翌14年(1609年)2月20日、日経上人は弟子とともに京都六条河原で「耳鼻そぎ」の極刑に処されました。


日経上人の極刑以降、日蓮宗の不受不施の一派や、日経上人の流れを汲む者への迫害が厳しくなったこともあり、万治3年(1660年)に現在の地(泉区上飯田町)にお寺の一切を移されたとされています。

 

その後、中興の祖であられる日祥上人を含む歴代の諸上人は、寺門の興隆に専念され、広大な堂宇を営まれましたが、しばしば災害を被ったため、万延2年(1861年)に本堂再建に踏み切り、明治2年(1869年)に落成しました。

 

大義院 日勇上人


当山第六十六世である大義院 日勇上人は、当山の再興に尽力されました。

昭和47年に山門を建立し、寺域整備を行い、昭和57年に日蓮大聖人第七百遠忌報恩事業として大客殿を建立されました。

さらに、平成2年には日什大正師第六百遠忌報恩事業として、本興寺大改修(本堂の改修・屋根替え・堂内整備・渡り廊下の建設・庫裡新築等)を行い、本興寺に於いて日什大正師第六百遠忌報恩大法要を挙行し、無事円成しました。

本理院 日彰上人


平成6年に日勇上人がご遷化された後、当山第六十七世である本理院日彰上人により、宝物殿の再興と歴代廟を新設されました。

さらに開宗七百五十年記念事業として鐘楼堂の建設、山道の改修、仁王像の復元を行われました。

また日彰上人は、平成11年に懸案だった500坪の隣接地買収をなされ、平成17年には、本堂の耐震工事と中客殿を建立し、本興寺の興隆に尽力されました。

玄妙阿闍梨日什大正師ご開山

日蓮宗 本山 法華山 本興寺